祖父を偲ぶ

poqrot2005-01-09

今日は祖父・昌喜の命日だ。
平成十三年一月九日。
八十七歳で祖父はこの世を去った。

祖父は努力の人であった。
中学卒業後、石川県金沢市から京都に出て丁稚奉公として着物絵職人のもとで働いた祖父は、若い頃から病弱で何度も大病を患いながらも、自ら医学書を読み漁った知識で摂生と強い信念をもっていくつもの逆境を乗り越えてきた。
祖父はフラフラとして人生と向き合おうとしないこの僕に、努力することの大切さを噛んで含ませるように何度も説教したものだった。
僕はそんな祖父を好いていた。
祖父は髪の毛どころか眉毛すらないツルツルだったのにも関わらずいつもベレー帽を被っていた、そんな洒落者なところも。
子供心に「おじいちゃんはなんでどんぐりのまねをしているの?」と聞いて大笑いされた事もあったっけ。


そんな祖父が、前年の秋に他界した祖母の後を追うように、体調を悪化させて入院した。
「バイトが忙しい」つまらない理由をつけてその何年も前から、親戚の集まりにも顔を出さず、ろくに見舞いにも行かなかった僕だったが、年の明けたある日、父は「おじいちゃんがもう危ない」と告げると僕を乗せて病院へと車を走らせた。


祖父が入院後、仕事終わりに大阪から京都まで足繁く病院に通っていた父は「こっちだ」と案内すると早足で観音開きの大きな扉を開けた。
ここは予断を許さない容態の患者ばかりが集められた部屋なのだろう。
そして中で四分割にされた一室へと僕を案内した。


後に続いた僕は一歩足を踏み入れたまま入口で動けなくなってしまった。
部屋の奥に横たわる祖父の口には太いパイプのような呼吸器が取り付けられ、身体の至る所に管が通されている。
辛うじて生かされているように見えるその姿に僕の知る祖父の面影はなかった。
僕は人間が生死の境を行き来する、その壮絶な姿にショックを受けていたのだ。

父はそんな祖父の枕元にそっと立つと、いたわるような優しい視線を祖父に投げかけている。
もう言葉も通じない祖父と見えない世界で会話しているかのように。


「おまえもこっちへ来なさい」
父に促されて、僕はおずおずとベッドに近付いた。
そして生ける屍と化した祖父の姿の中から、元気だった頃の姿を見い出そうと躍起になっていた。
死が人間をこんなに変えてしまうなんて、そんなことを信じたくなかった。
祖父の顔をまじまじと見つめても、僕にはこれが本当に祖父だとはピンと来なかった。
ピンと、、、


ハァ???
眉毛がフッサフサである?
祖父には眉毛がないはずなのに!
一瞬「副作用」の3文字が頭をかすめたが、そんな病気を患っていたとは聞いてはいない。
まさか!こんな恐ろしいことを考えるだなんてあまりにも不謹慎だ、そんな葛藤と戦いながら、僕は次の言葉を口にせずにはいられなくなった。


「これ、本当におじいちゃん?」


意を決して発した僕の一言に、父は信じられない、という表情を浮かべると怒りに声をつまらた。


「おまえはなにを、、、お じ い ち ゃ ん や っ !」


しかし、もうこの頃には僕の疑念は確信へと変わっていた。
なぜなら目の前のこの人は頭頂部が禿げている共通点を除けば祖父とは似ても似つかないからだ。
祖父が華奢でいかにも体が弱そうだったのに対して、目の前の老人からは死を前にしてなお祖父よりも遥かに力強い生命の息吹きが感じられる。

「違う!おじいちゃんじゃない!絶対に違う!」
僕の剣幕に慌てたのだろう。
父はいきなり部屋を飛び出すと、あろうことか四分割された他の部屋をノックもせずに片っ端から開けて回った。
そして駆け足で戻ってくるとこう言うのだ。


「あとの3人は似ても似つかない!
 だからこれがおじいちゃんや!」


消去法である。
びっくりした。
新発想。

独自の理論に活路を見い出して俄然頑さを増したこの男とこれ以上のディスカッションは不可能、と判断した僕は看護婦さんのもとに走った。
「ああ、村田さんでしたら今朝、病室が変わりましたよ。」




数分後、今度こそ本当の祖父の下に辿り着いた父は、枕元に立って先ほどと変わらぬ優しい息子の眼差しを祖父に投げかけている。
あり得ない。
たった今、四択で選んだ赤の他人を新しいおじいちゃんに祭り上げようとしていた男が、である。
今際の瞬間を迎えようとしている祖父を前にして、不謹慎にも僕は笑いが止まらなかった。
叔父夫婦は咎めるような一瞥を僕にくれたが、事情を説明すると100%の同意を示してくれた。
父は「いや、おかしいとは思ったんや。血圧の数値が昨日とは違ってたからなあ」とトンチンカンに拍車をかけるような弁明をくり返していた。
意味が分からない。
長年の記憶よりも血圧の数値こそがお父さんと判断する決め手、なんてことを発言した日本国民は他に誰一人としていない。

あの間違えられたご老人とそのご家族は、この今際の一コマをついぞ知ることはなかった。
もし、うっかりあの場でこときれようものなら、人生の大団円をコントとして締めくくられていたに違いないのに。
いや、「もし」の話はよそう。
野球に「もし」がないように、父にも「もし」はない。
パフィが「同じ顔だ」とか、宮沢りえ後藤久美子が「同じ顔だ」と主張していた父にとってこれは必然的に起こった出来事なのだ。



いつだって病院にはドラマがある。
この日を迎えると僕はいつも思い出す。