右か左か

右翼団体の街頭演説に通りがかったので束の間見入っていた。物々しい街宣車を背に、戦闘服に身を包んだ強面の構成員が拡声器を用いて大声を張り上げる光景が異様に映る。その後扇町公園まで足を伸ばしたところ、祭りのような賑わいの中に屋台が見えたので、何だろうと覗いてみたら、今度は反戦集会のバザーだったのでこれまたぎょっとした。

右翼と左翼。そのどちらでもない僕は双方の運動家にどこかしら違和感を禁じ得ない。 毎日を無気力に垂れ流すように過ごしていると、彼ら運動家の有り余るエネルギーがおよそ縁遠いものに感じられて仕方ないのだ。
第一、僕は右と左の違いについて実のところよく理解していない。自身がどちら寄りかと問われても、せいぜい思い当たるのは陰茎が左寄りであるという事くらいだ。もしこれをもって右か左かに区分されるのだとすれば、僕は随分左寄りの人間ということになるが、さりとてこれを左翼運動へと駆り立てるモチベーションとするにはやはり相当の無理がある。 人間がなにかと群れたがる生き物だとしても、よりによって松茸の角度に共通点を見い出すことはないのである。その意味で僕は運動家なる人々の執着ポイントが極度に偏っていると断言する事にいささかも躊躇することはしない。
右翼構成員が軍歌を大音量で流しながら、自身の右寄りを拡声器を用いて広く市井に喧伝する姿からは、明らかに羞恥心が欠落しているとしか思えないし、かたや左翼運動家が左寄りの同士を求めて草の根的にネットワークを培ったり決起集会に打って出るエネルギーの有り様にも松茸共依存の徴候が見られて、同様に心からの理解を示す事は難しい。

しかし、こうして左右思想を掘り下げていく内に、この違和感は何も運動家特有の問題とは言い切れないという気もしてくるのだ。
例えば朝日新聞。左派とされる同社が入社試験で左寄り松茸人間しか採用していないというのであれば、身体的差別、セクハラの両面からこの松茸狩りは問題であり、採用基準とその方法の根本的な見直しが迫られて然るべきだろう。
ましてや多額の税金を注ぎ込んで、右寄りである小泉首相の松茸支持、不支持を国民に問うた前回の選挙などまさしく言語道断である。右派小泉自民の歴史的圧勝の背景に、民主党・岡田元代表の左右はっきりしない松茸の問題があったのだとすれば、この国は絶対にどうかしているし、これを国民投票にすり替えた小泉首相の真意は不可解であるばかりか、その自信の拠り所も全くもって意味不明と言わざるを得ない。
やはりどう考えてみても選挙に訴えるほどの案件ではなかった。

季語を交えつつ日本の右傾化を斬ってみたのだが、果たして僕の思想観に間違いはないのだろうか。