いつだって輪ゴムだった【最終章】

老人新人・高倉氏との血で血を洗うおしくらまんじゅうに敗れエロビデオ店を追われた僕が、次に活躍の場を求めたのもまたエロビデオ店であった。
この頃の僕は薄給に目をつぶってでも必要最低限のコミュニケーションでやり遂せる一人店番の気楽さと、業務上あってはならないはずの閑散と静寂を何にも代えられぬ勤務条件と位置付けていたので、その全てを兼ね備えたエロビデオ店の居心地の良さから到底抜けだせる気がしないでいたのである。
とは言えこの新天地のぬるま湯加減は想像を絶するものだった。

まず早々に驚かされたのは動きの見られぬ仕入状況だった。
不良在庫と思しき色褪せた新古品が補充されるのを除けば、新商品の入荷はおよそ一ヵ月に一度、それも十本程度。
一日の売り上げが人件費だけでほぼ相殺される超絶赤字のこの店には、もう自発的業務停止命令が下されていたと考えて差し支えない。

ある種の非営利団体とさえ言えるこのフランチャイズ店には、個人オーナーのてこ入れ後見違えるように羽振りが良くなる未来が待ち構えているのだが、そこに至るまでの3ヵ月の間は日ごと来客数が落ち込む一方で、仕事と言えば雑誌の返品作業を終えれば清掃、それを終えれば呆ける以外になかったのだ。

そんな手持ち無沙汰からレジ内の備品置き場を見渡している時ふと目に止まったのが潤沢なストックを抱える輪ゴム箱だった。
人間は大きく分けて二種類いる。
輪ゴムを飛ばす者と飛ばさない者と。
そしてまごうことなく前者に分類される僕が禁断の果実に手を伸ばしたのは至極当然の成りゆきだった。

うなぎの寝床の形をなす店内は、当時奥側1/3ほどのスペースがパーテーションで区切られてほぼ開かずの社長室とされていた。
男に越えなくてはならない壁があるとすれば、この時の僕にとってまさにこのパーテーションがそれだったのに違いない。
僕はその日から入り口付近に位置するレジから社長室に向って輪ゴムを飛ばし始めるようになった。

日々の積み重ねは顕著に成果を見せて、始めはパーテーションに届きもしなかったのがコツを覚えると時折その頂を越えるまでに飛距離を伸ばすようになった。
そうなると闇雲に飛ばすだけだったゴム飛ばしはやがて10回中何回フェンスオーバーするかというホームラン競争へと移行し、さらに腕を上げてほぼ全ての試技がフェンスオーバーするようになると今度は陸上競技的に記録への挑戦と、技量に見合った形でそのゲーム性をシフトしていくのだった。
ゴムの弾かれる音と断続的に快哉の叫びが響き渡る店内。
20代前半、打ち込む対象によっては何事か成し得たかもしれない実りの季節をいたずらに費やして人生を台無しにした感も正直無くは無いが、この時夢中になれる何かを見つけていた事だけは確かだ。

毎日4、5時間もの間、遮二無二飛ばし続けていると、当然のことながら社長室内には無数の輪ゴムが散乱することになる。
そこで時々パーテーションを乗り越えてこれらの回収作業に当たるのだが、余さずという訳にはいかなかったようである。
ある日出勤すると連絡帳と輪ゴム箱側面に社長の字でメモが書かれていた。

「バイトのみなさんへ。輪ゴムを飛ばさないで下さい。
こんなことを書かなくてはいけないことが情けなくてなりません。
何が楽しいのですか?理解に苦しみます」

ここに至って遅まきながら初めて自問する。
「なぜ輪ゴムを飛ばすのですか」
しかしその問にいくら首を捻ったところで「そこに輪ゴムがあるから、ですかね…」としか答えられない。
とどのつまりこれは輪ゴム飛ばしの本質に通底した者にしかわかり得ない固有の感覚なのである。

それでも言葉にしなくては伝わらない思いがあるのだとしたら、僕はあの時こそ連絡帳に輪ゴムへの熱い思いを綴るべきだったのかもしれない、と思う。
限りある時給発生時間の中で社長が思うよりもずっとたくさんの、何倍何十倍もの輪ゴムを飛ばしていた事を。
そして即日解雇の憂き目に遭ったその時に僕は賃金が労働の対価であると初めて知るのだろう。
その意味で僕の割札の儀はまだ済まされていない。