真性・メガネ男子

メガネ男子

メガネ男子

明日、『メガネ男子』という書籍が発売されるのだそうだ。社会の片隅で息を潜めて蠢く真性眼鏡にとっては降って湧いたような話なので、天変地異が起こったか下克上再来か、とにわかに色めき立ちたくもなるところだが、実際のところこうした恩恵が眼鏡界の下々にまで行き届くようになるとは、にわかには信じがたい。

先日、人でごった返す土曜日の梅田を歩いていたら、流れを分断するように目の前を男女が横切っていった。前傾姿勢で後続を引き離そうとする眼鏡男子と、アンケート用紙らしきものを持って食い下がる女性。
僕の目に狂いがなければこれは俗に言うキャッチセールスという悪徳商法に違いなく、その証拠に女性の瞳にはキャッチした上でセールスしてやろうという、肉食動物特有の狂暴な光が宿るのが見て取れた。一方の眼鏡君が口を真一文字に結び、相手にしたら負けだ、とばかりに正面を見据えて加速していく姿は、本人の確固たる決意に反して、巻き込まれ型の草食動物を想起させるように獲物じみて映り、我々下界の眼鏡が都会のジャングルでは狩猟対象として脅やかされる生きものだということを如実に物語る。

もう人生の2/3を眼鏡人間として過ごしてきた経験則に照らして、キャッチセールスのマニュアルに「眼鏡を狙え」と太字で書かれていることには確信の念を抱いている。その大前提の上で、眼鏡のレンズが大きければ大きいほどよし、シャツ・イン派、リュック派ならなおよし、といった各種オプション項目が付け加えられているのに違いない。

別の日、シングルズへ向う道すがら、上記オプションフル装備の完全なる草食動物が、二頭の雌ライオンに取り囲まれている場面に遭遇した。
これは恐ろしい事だ。雌ライオン達が退路を塞ぐようにして入れ代わり立ち代わり追いつめて行くこの作戦は、その情け容赦無い苛酷さから「金色のライオン」と呼ばれ、長渕剛が同名曲を歌ったことでつとに有名である。真性眼鏡が異性慣れしていないところにつけ込んで真っ当な判断力を奪う、それこそがこの作戦最大の美点ということなのだろうが、そもそもそういったフィールドに自分の活躍の可能性を見出せず裏道を歩いてきた真性眼鏡にとって、わざわざ表舞台に引っ張り出された上で「彼女いそう」「絶対モテるでしょ」などと見え透いた嘘を並べ立てられる状況ほど、辱められた思いにさせられることもない。

ああ、なんとかして彼を救いたい、けれどもそんな勇気はない、なぜならば僕もキャッチのトラウマを払拭できずにいる眼鏡だからだ、そんな苦々しい思いを抱えながら通り過ぎんとした時、前方に自転車に乗った出前のおじさんの姿が見えた。そして狭い歩道上で交差したその刹那、僕の鞄と彼のおかもちが正面衝突した。辺り一帯に響き渡るドラムブレイクに通行人の誰もが足を止めて振り返る。出前のおじさんは少しバランスを崩しただけで何事も無かったように通り過ぎて行ったが、彼こそは街角の天使だったのかもしれない、とその時思った。

よどみなく進められていた作戦にすっかり水を差されたことで、雌ライオン達は恨めしそうにこちらを睨んだ。彼女達の間ではターゲットに間を与えることは禁忌とされていて、ほぼ手中にしていた獲物がそうした隙に乗じて逃げおおせた時、それを「とんぼ」と呼んで忌み嫌っているが、そのやるせない心情を歌ったのがこれまた長渕剛であることもまた有名な話である。

さて、天使の手による偶発的産物とは言え、脱出を図るには絶好の機会。僕は眼鏡くんに向けて眼鏡を光らせて、一般人のアイコンタクトにもよく似たレンズコンタクトを送った。
キラン(今だ!逃げて!)
しかし眼鏡君はニヤニヤとした笑みを貼り付かせたまま動けないでいる。いや、動けないのではない。むしろこの心地良い状況に至極御満悦といった風にすら見受けられる。眼鏡君はまんざらでもなかったのだ。
真性眼鏡が悪意の鉾先となることは、もはや避けがたいものだと言わざるを得ない。