恋はいつも

レコード店を退職したのが昨年末。失業保険の手続きを済ませたのが3月末。そして退職後速やかに申請していれば3ヶ月間の受給期間を満了したはずの6月下旬、派遣アルバイトながらも職が決まった。まさに受給寸前の出来事だった。こうして再就職祝い金すら手にすることなく、半年に渡る無収入生活にピリオドが打たれたわけだが、物の道理では説明がつかぬこの空白の3ヵ月にこそ、僕と言う人間の量り知れぬミステリーが表れているような気がする。
ともあれ紆余曲折を経て手にする半年ぶりのお給金。僕は半月分にも満たない給与明細を見ながら、この事を伝えたいあの人を思い返していた。

今年二月のある晩、携帯画面に見つけた知らない番号からの不在着信。いぶかってはみたものの前年に携帯電話を紛失しているとあって、音信不通の知人かも知れないと僕は恐る恐るながらリダイヤルすることにした。
「おーー!ハイハーイ!」
聞こえて来たのは親し気な若い女性の声。
しかし僕にこれほどフランク極まる知己がいたとはまるで身に覚えがない。
「あ、あのう、つい先ほどお電話頂いてかけ直したのですが…」
「わーーごめん、アハハハ。忙しかった?」
言葉を交わせば交わすほどにこれは知人ではないという思いが強まる。
「す、すみません、あの失礼ですけどどちら様でしょうか?」
「12月にもかけたんやけど繋がらんくてさー、でもっかいかけてみてんけど」
…12月。
!!!
たった一人だけ該当する人材に思い当たった。瞬く間に記憶が鮮明に蘇る。
その声の主は森野さんに違いなかった。

小島麻由美フジファブリック目当てに行ったLIFE SIZE ROCKの2日目のことだからあれは8月18日。
なんばHATCHのロビーを一人で歩いている時にマイミクのパピさんとばったり出会った。そしてこの時パピさんと連れ添っておられた人こそ森野さんその人であった。森野さんはパピさんの同僚であると同時に、奇遇にも当時僕の勤めていたレコード店の先輩にもあたる人だ。在職期間が入れ違っているためこの日まで面識はなかったが、お名前だけは同僚の口から耳にしていたのだ。
パピさんのお話によるとこの偶然の対面直前、二人に気づかず通り過ぎた僕を指差して森野さんは「パピさん知ってる?あの人芸人だよ」と耳打ちしていたのだそうだ。結局、僕を誰と間違えたのかは、この日森野さんの口から聞くことは出来なかった。
それからしばらく経ったある日、僕は勤務先のレコード店に来店した森野さんを見かけた。
「前に僕と間違えた芸人って天津の向じゃないですか?」
「あたり!」
交わされた言葉はこれだけ。
それが12月。


一体どういった用件だろう。パピさんから電話番号を聞いたのだろうか。
「あーあーあー!すみません!気づかなかった。僕、かけ直さなかったんですね。」
「ううん、いいって。急やったしさ。アハハハ」
「びっくりしましたよ。お元気ですか?」
僕の口調から知らず知らずの内に先ほどまでの警戒心が消え、つられるように気さくな響きを持ち始めたことに気づく。
「うん。元気元気!アハハハ。でさあ、今日やねんけどさあ、今、仕事帰り?」
もしや誘われているのだろうか?
「やー、仕事は年末で辞めたんですよ。で、今もブラブラしてるんで家にいました」
一瞬の沈黙があった。
「えー、そうなん…」
森野さんの声から一瞬にして僕への関心の色が薄れ行くのを感じた。
もう先程までの森野さんではないかのようだ。
いや、そもそも森野さんはどんな人なのだろうか。
考えれば考えるほどあまり覚えていないことに気がついた。
「あの…もしかして森野さんじゃ…僕の知り合いじゃないんでしょうか?」
「アハハハちゃうちゃう」
新事実。森野さんではなかった。
「ええええ!じゃあなんで電話かけてこられたのですか?!」
「適当にかけとってんやんかあ」
「あああなた、ものすごいことなさいますね…」
「えー、そうかなあ?アハハハ」
適当にかけたというのは勿論嘘だろう。
一度かけて出なかった番号に二ヵ月経って固執するなどまるで整合性に欠ける話だ。
「そっかー。仕事してないならしゃあないなあ。お兄さんさあ、仕事が決まったらまた教えてよ」
「はい。真っ先に連絡します」
「アハハハじゃあ待ってるよ。またね」

そう言い残して彼女はあっさりと電話を切った。今のところこれが僕達の間にもたれた会話の全てだ。この数分の接触で僕が彼女について知り得た情報は何ひとつと言っていいほどない。顔も、名前も、年齢も、何も知らない。ただフランキーな響きだけを残して彼女は消え去ってしまった。
追われると逃げたくなる。逃げられると追いたくなる。恋はいつだってトムとジェリーだ。そして2005年2月というx座標で彼女のトム曲線と僕のジェリー曲線は交錯してしまった。
おお、ジェリー。トムたる僕のジェリー。

僅かばかりの給料を持って僕は彼女の元に駆け付けなくてはならない。きっと彼女はあのフランク過剰な口調で優しく迎えてくれるだろう。僕は彼女の左手を取って薬指にそっと指輪をはめる。そして彼女が差し出した紙に印鑑を押して契りを結ぶのだ。雑居ビルの一室で大柄な男性達にとり囲まれながら。