スリラー・イン・レジ

昨年末まで勤めていたレコード店。大型店とは言え僕が配属されていたフロアは店内で最も売り上げが落ちるジャンルであったため、客でごった返すような事もなく平日の昼間などは実に閑散としていた。

そんなレジの静寂に魔が差したのかもしれない。三十路の川を渡って以降、加速度的に生い茂り始めた腕周りの毛を見やる内に、一網打尽にしてやりたい衝動に僕はかられた。
昂りに抗えぬままカッターナイフを取り出すと、正面を見据えたまま左腕をチラ見、そしてジョリジョリと剃毛に取りかかる。肘から上はノーモーション、それも全くのノーローション。
しかしスリルに比して得る見返りがほぼゼロに等しいこの状況を楽しむには、僕という人間はあまりにも行為に没頭し過ぎるように作られていた。
腕の外側の剛毛処理が終わり内側のうぶ毛処理にかかる、その時だった。

「ハッ!」

鋭く飲んだ息にぎょっとして顔を上げると同僚が立ち尽くしていた。
「あんた何してんの!」
いつもは陽気な同僚が血相を変えている。無理もない。折しも失恋したばかりの僕は同僚に悩み相談をしたばかりだったのだ。いくつもの状況が、いや、左手首に突きつけられたカッターナイフが状況説明にリストカット以外の選択肢を用意しない。
ちがう、と喉元まで出かかったが、勤務中手首に刃物を押し当ててなお情状酌量が認められるとすれば、どちらかと言えばムダ毛処理より傷心の方だ、と思いとどまった。

プライベートを仕事に持ち込むな、とはよく聞くセリフだが、恋愛はまだしもムダ毛処理までを仕事と混同している人間はそう多くない。お前は仕事場に何をしに来ているのか、と問いつめられようものなら、つるつるの左腕が誰よりも雄弁に「ムダ毛処理です」と吐露してしまうこの危機的状況の回避が何にも先んじられて然るべきだ。

「ごめん…大丈夫…だから」

力のない笑みを繕ってカッターナイフをそっと道具置き場にしまった。